本当に寒く長く感じた今年の冬が春風に吹き飛ばされて、桜に心がうきうきしていた明るい日曜日に、高田渡の訃報を目にしました。
高田渡とは誰だったのか。
少年は年若さの故に、輝く未来を夢見ます。
立身出世! 限りない社会の発展! 科学が導く豊かな生活!
あるとき、少年に疑問がわきます。
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
(宮沢賢治「農民芸術概論綱要」 ここからダウンロードしてパソコンで読めます)
世界がぜんたい幸福になることはあるのだろうか。
そんなときに苦労人の顔をした年上の同輩が、
添田唖蝉坊の演歌を、カーターファミリー風のアメリカ民謡の節で、同時代の歌として歌う。
日々の生活の中で人が求める幸せは、すべて光り輝くものではないが、それでも人は自分の心を照らすものを静かに追い続けている。世間は冷たいが、世界は人達を明るく照らしている。
そんな風景がくぐもった歌声で描かれます。
少年は気がつきます。
世界がぜんたい幸福になるのは、科学や経済の成長の結果として現れることではないようだと。
それが高田渡の登場でした。
歩き疲れては 夜空と陸との隙間にもぐり込んで
草に埋れては寝たのです
所かまわず寝たのです
歩き 疲れては 草に埋れて寝たのです
歩き疲れ 寝たのですが 眠れないのです
(山之口貘 生活の柄)
そういえば、こういう生活をしている人がそこいらにいたのです。日々の暮らしのなかで、ふとその気になれば、今の私たちにも無縁なことではありません。放浪というのは考えれば身近なことです。
高田渡は少し前の時代の詩に曲をつけて歌いました。
山之口貘や吉野弘に黒田三郎、三木卓に金子光晴、ラングストン・ヒューズ(「夜風のブルース」)やジャック・プレベール(小笠原豊樹訳「わたしはわたしよ」)にマリー・ローランサン(堀口大学訳「鎮静剤」)。
遅れて生まれた者は、自分の時代にかすかに残るひとつ前の時代の匂いから、自分の生まれるはずであった世界をつくりあげます。アメリカ合衆国でいえば「怒りの葡萄」の時代。日本でいえば金子光晴が草履で歩いていた砂ぼこりの立つ路地の時代。肌に合うというのでしょうか。なじんでしまって、現実の多くの人が生きている時間の流れは気にならない。あちらが標準時とすれば、こちらの世界との時差は相当あるようだ、そんなところでしょうか。
おすすめのCDは「日本に来た外国詩・・・。」
初期のものの初々しい感じも捨てがたいのですが、2001年発表のこのCDは、こわしようのない確固とした世界にゆったりと身をまかせることができます。
コンサートでよく聞かせてくれた、ここにも収録されている曲を引用します。
夕暮れに あおぎ見る
輝く 青空
日が暮れて たどるは
我が家の 細道
狭いながらも 楽しい我が家
愛の月影のさすところ
恋しい家こそ
私の青空
(「私の青空」 詩:ジョージ・ホワイティング 訳詞:堀内敬三)