今日のステレオ-カラヤン/大地の歌
カラヤン指揮 ベルリンフィル マーラー「大地の歌」 |
カラヤンはどんな曲でも聞きやすく演奏してくれるとか言われていました。ヴィヴァルディの「四季」からウェーベルンまで、うきうきした「メリー・ウィドウ」から禅問答のような「パルシファル」まで、およそレコードでみんなが聞く音楽はほとんど録音しました。こう書いてくると、そのどこが悪い、なのですが、良く思われていなかったのは確かです。 クラシック音楽のLPレコードで最初に自分のものになったのはカラヤンのベートーヴェン第9交響曲「合唱」でした。ベートーヴェンの第9交響曲を64分で演奏したのは、LPレコード1枚に入れるためだと噂されたレコードです。商業主義を体現しているように言われました。売れることが誉められない原因だった? レコードは売れましたが、前の時代の演奏家と較べられて、あまり高い評価はされなかったように思います。 音楽を聴き始めるころは評論家が頼りです。「レコード芸術」で買うレコードを決めていました。ベートーヴェンはフルトヴェングラーと較べられ、ワーグナーはクナッパーツブッシュと、モーツァルトはワルターと、ドヴォルザークはクーベリックと、そしてカラヤンは音の響きが洗練されていて誰でも美しさがわかると誉められ? ていました。誰でもわかる良さは勉強しなくてもよく、カラヤンのレコードは避けました。 でも耳にして買わずにいられなかったレコードもあります。チャイコフスキーの「くるみ割り人形」。デル・モナコとのヴェルディの「オテロ」。ブルックナーの交響曲4番と7番のセット。キャスリーン・バトルが「春の歌」を歌ったウィーン・フィルハーモニーのニュー・イヤーコンサート。でも耳に美しく響くことを罪のように思っていたかもしれません。 時は流れ、カラヤンが逝って15年、手に入る録音のほとんどは思い出した人のための廉価盤です。すべて良い演奏ということは代表盤がないということで、今の時代では売り出しにくいでしょう。 クラシック音楽はみんなの楽しみになりました。雄渾なフルトヴェングラーを、優美なワルターを、今日は熱血ムーティを、明日は学究アーノンクールを、その日の気持ちを指揮者にまかせて、日替わりで。 昔の愛好家は1枚のレコードを何度も聴きました。演奏者にまかせるのでなく、自分自身が求めるものを音楽の中に探していました。作品の再創造という言葉を思い出します。 さて、カラヤンです。音色は美しく、わかりやすく演奏してくれます。音楽から作曲家の考えたことを引き出そうと自分で考えるのなら絶好の演奏です。指揮者が音を磨くことに集中したので自分の色が付いていないのですから、聞き手は作曲家と対面することに集中すればよいのです。 マーラーの独唱付き交響曲「大地の歌」。「レコード芸術」は、ワルターのものとバーンスタインのものを薦めるはずです。私も友達に聞かれればそう答えます。 昨日手に入れたのは、1973年と1974年に録音されたカラヤンのベルリンフィルハーモニーとの録音です。 この響きの豊かさは今まで聴いたどのマーラーとも違います。曲で引用されている李太白や銭起の詩が管弦楽で色づけされることなく、訴えかけてきます。細やかに組み合わされ揺るがすような大音量でもでも決して落ち着きを失わない合奏の上でルネ・コロのテノールが「生は暗く死もまた暗い」と暖かな声で語りかけるように歌い、たっぷりした弦の合奏に乗ってクリスタ・ルードヴィヒのアルトが「心は倦(う)み疲れ ランプは揺れては消え 眠りが私を包む」と包み込むように歌います。 マーラーが題材を取った「中国の笛」という詩集は漢詩のドイツ語訳の撰集で、交響曲「大地の歌」が作曲された1908年当時の思潮から悲劇的、厭世的に解釈され、演奏家も地上の悲惨さを激情で描き、諦念を感情を沈ませるように演奏してきました。カラヤンはその広い視野の中で、この曲に天国を感じたのだと思います。 1976年発売のレコードの帯のキャッチコピーは「聴き手にとっての牙たりうるか、このマーラー。」バーンスタインのように牙をむき出さず、ワルターのように傷をさすりいたわるのではなく、天国で流れる夢のような響きの中で地上の生活を追想する、そんな演奏です。指揮者に頼ることを許さないこの一点で「聴き手にとっての牙」と書いたのでしょう。 最終第6楽章は王維と孟浩然によるとあり、 馬を降り盃を求め きびしいさだめのこの世に と終わります。 去った友に残された私たちはこの地上でまた別の朝を迎えます。きっとそれはいつもと同じ朝ではないでしょう。 |