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楽譜   演奏会見聞録

09年6月13日

クリスチャン・ツィメルマン

バッハ、ベートーヴェン、ブラームスというプログラムにツィメルマンの強い意志を感じて、こちらも襟を正して演奏会に臨みました。

バッハのパルティータをレコードで聴いているときには、冒頭まもなくのやわらかなメロディーで思考停止となって、あとは全編雰囲気に身を任せてしまうのです。しかし、演奏会の集中のなかでは、旋律の線で建築図面が描かれていくのが見えてきます。創作の現場に立ち会っているという感覚に興奮してしまいます。
綾織りの糸目の縒り糸を一本ずつすくい上げて、色つやと光を見せてくれる。音の美しさと位置取りの正確さは織工の精密な技術を見ているようです。
バッハによる音の組み合わせの実験を、会場で検証してくれているのだ、と思いました。音楽を演奏することが真剣勝負だと教えてくれているのだ、そして聴くこともまた・・・。
第6曲カプリッチョ、フーガの入り組んだ声部が奔流となって吹き上げてくると、ただ圧倒されるだけでした。

ベートーヴェンの最後のピアノ・ソナタ。
ピアノがこんなに大きい音量で鳴るのをはじめて聴いた。すべての音にエコーがかかって、しかし音は割れず、複雑にからむ声部も明瞭に分離して聞こえる。演奏者独自の調律がされているようだ。
衝撃音で開始される第1楽章、速度を上げていく様子がエンジンの回転のなめらかさではなく、コマごとに近づいてくる漫画の蒸気機関車のように有機的に思えた。オーケストラのような音量で、運動体の質量がうなりを上げて進んでくる。
マルセル・デュシャンの「階段を降りる裸体 No. 2」のことを思っていました。
第2楽章アリエッタ。夕暮れのあと、それぞれの順番を確かめながら一斉に姿を現す星々、見ている間に夜空が光り始める。わくわくする予感から、ブギウギのようなはねるリズムで躍動をはじめる大きな運動体。旋律やリズムが感情を表すのがそれまでの音楽のあり方ならば、ベートーヴェンは周縁を大きく広げてしまった。
ツィメルマンはベートーヴェンの音符をばらばらにした上で、それぞれの音に最適な響きと強さを持たせ、確かめながら音の奔流を再構成している。それに、物語にとどまらない音楽をめざすことで、新しい音楽のあり方に踏み込んでいる。音の建築による均衡の宇宙。ポロックやロスコの絵画が、鑑賞する者の思索を作品の世界に溶かし込んでしまうのを僕たちは知っている。そしてツィメルマンの音楽も。抽象表現主義!?
50年代生まれの思潮に共感していました。

ブラームス59歳の4つの小品は、3つの間奏曲と1つのラプソディという組み合わせです。
天から宝石が落ちてくるような第1曲アダージョ。いつもならうっとりして聴いている曲なのに、切羽詰まったように始まる第2曲アンダンティーノに芯のようなものを感じて、体が硬くなりました。
第3曲の楽しさも音のひとつひとつの選び抜かれた響きで緊張感が途切れません。第4曲ラプソディは、熱を感じさせながらも開放的な響きの楽しい曲のように思っていましたが、実の詰まった音の連続で積み上がり、悲劇的にすら感じられました。
グレン・グールドのLPレコードを聴いて、達観の彼方に聞こえる懐古の音楽と感じ、ブラームスの入り口となってくれた曲が、ピアノの機能を踏まえて構成的に演奏されたのには、新しい世界が現れたような気がしました。別の耳でもう一度ブラームスをたどってみたいと思ったのでした。

シマノフスキといっても、シェーンベルクのような曲調の弦楽四重奏曲の作者として知っているだけでした。1882年生まれですからシェーンベルク(「浄められた夜」1899年)の8歳下、バルトーク(1899年ブダペスト音楽院入学)の1歳下ということになります。
ポーランド民謡の主題による変奏曲は、作曲家18歳から22歳のワルシャワ音楽院在学中の1900年から1904年にかけての作曲です。
バルトークも自国ハンガリーの民謡を研究しましたが、シマノフスキも祖国の民謡を題材に取り上げています。資本主義の発達とナショナリズムの高まりの中での当時の思潮なのでしょう。
憂いのこもった、たゆたうメロディーの序奏と主題に、10の変奏が続く曲でした。ショパン、ラフマニノフのようなロマンティックな音の流れから、リストのようなあてもない彷徨と瞑想。技巧を凝らして積み上げた伽藍のような終曲。
初めての曲で予断がなかったからでしょうか。若い作曲家が苦しみ、悲しみ、叫んでいる姿、世界に飛びだしていく覇気、に共感することができました。コンサートのはじまりからずっと感じてきたツィメルマンの曲に対する醒めた目、作曲者とピアニストとの二重構造も感じることなく(思考停止状態?)、最後の曲を楽しむことができました。

アンコールはありません。これ以上演奏してくれなくても、宿題をたくさん持たされた身には充分でした。
ショパン・コンクール優勝、数々の録音という経歴から想像はしていましたが、目の前で繰り広げられた世界は、はるか高みにある神々のひとりのものでした。

クリスチャン・ツィメルマン ピアノ・リサイタル
09年6月13日土曜日18時30分開演
福島市音楽堂大ホール

プログラム
J.S. バッハ:パルティータ 第2番 ハ短調 BWV826
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第32番 ハ短調 作品111
ブラームス:4つの小品 作品119
シマノフスキ:ポーランド民謡の主題による変奏曲 作品10