小倉寺村ロゴ


楽譜   演奏会見聞録

10年10月11日

ヴッパータール交響楽団

ジークフリート牧歌。指先でつまんだ羽根を、腕を伸ばせるだけゆっくりとのばしきって、そっと離す、そんなデリケートな弦の始まりから、魔法に引き込まれてしまった。後半に聞くことになるアダジエットを思い起こす夢幻の世界。フルートの美しい響き、やわらかなホルン、大編成なのに室内楽のようなきめ細かさ。
やがて、混沌、ゆらゆらとワーグナーらしい展開となり、この間テレビで見たパルシファルの音を思い出した。ホールの外は上天気なのに、ここは夜、麻薬のように体がゆるんでいってしまう。陶酔。音は混み合っていて覚えていられないのに酔いだけが続く。
隣席の女性の柑橘系のコロンのせいではないようでした。今日のプログラムには白檀系があうようでしたが、もちろん黙っていました。

さてマーラー。「巨人」「復活」「大地の歌」と二十歳の頃にこの世界に浸かっていました。「人生は暗く死もまた暗い」と永遠へ憧れるのが青年の気持ちに合っていたのでしょう。同じころ「異邦人」でヴィスコンティを発見、当時は流行になって「ベニスに死す」は客席が込んでいた記憶があります。今は昔。
冒頭トランペットが鳴り響きます。輝いていました。今まで聞いたどんなトランペットよりも冴えて、豊かで、王のようにホールを支配しました。(書いていて照れてしまいますが、大げさでなく、ありのままです。「うつくしいということばを、ためらわず / 口にすることを、誰もしなくなった。 / そうしてわたしたちの会話は貧しくなった。 / うつくしいものをうつくしいと言おう。」この火山の下の街で生まれた詩人長田弘「世界はうつくしいと」)作曲者の意図が体現されたかのようでした。
弦による葬送の行進も美しく響きました。廃墟の中の人々が足どりはのろくとも心の中は感情で詰まっているような行進でした。指揮者はコントラバスにアクセントを要求しました。悲痛さが際だちました。
やがて行進は嵐の中を突き進みます。指揮者は腕を振り回し、2回転のワインドアップも! 前の席のご夫婦は苦笑していたようでしたが、私は共感していました。どんなに踊り跳ね回っても、作曲者が求めた狂気の表現なのだ、そう納得できました。
強調された低音部は行進を地獄へと進めていきます。嵐の中を寂々と。トランペットからフルートへ、この楽章は美しく消えていきました。
2楽章も嵐の激しさでした。最後近く聖歌のような旋律が現れ、運命にもてあそばれる生ある者のつらさをなだめてくれているようでした。消え際の魂が落ちるような神秘的な音はハープとコントラバスだったでしょうか。
3楽章スケルツォ。諧謔、皮肉、人間の戯画なのでしょう。指揮者は片足をあげる仕草でこの冷笑に耐えていたのでしょうか。アルレッキーノの軽やかさで、ストラヴィンスキーを先取りしたようなコラージュを、切り混ぜるように表現していました。
この楽章ではホルンが主役のように立ち現れますが、妙芸を披露しました。女性の方でしたが、バリトン歌手のように歌うホルンです。むずかしい楽器だと思うのですが、完璧に思われました。そしてホルンから弦のピツィカート、木管と引き継がれる部分では室内楽によるインテルメッツォ(間奏曲)のようなたたずまいでした。弦による地面に吸い付くようなワルツ、そういえば作曲者はウィーン宮廷歌劇場で指揮をしていました。
(ウィキペディア「グスタフ・マーラー」を参考とした。同じ項の「オーストリアが長らく盟主として君臨したドイツの統一から除外され、ハンガリーやチェコなど多数の非ドイツ人地域を持つ別国家として斜陽の道を歩み始めた頃」という記述はマーラーの音楽を考える鍵になりそうだ。)
そしてアダジエット、思えばこの平安に至るまでの艱難辛苦、頭の中が嵐の状態でした。
パンフレットの解説者は「耽美的に仕上げるか、間奏曲のようにさらりと通りすぎるのか」と書いていましたが、私には後者のように思えました。耽美的に(ジークフリート牧歌のときのように)仕上げることもできたのですが、足早に通り過ぎることで曲の劇性を高めることにしたのだと思います。
最終楽章「ロンド・フィナーレ」を聞いていて「地上のメリー・クリスマス」という言葉を思いつきました。葬送から嵐、地上の闘争の厳しさから不信、皮肉、そしてひとときの思索の後に、最後には祭り、人間讃歌という物語はいかがでしょうか。みんなの喜び、祭りのにぎわい、ハレルヤ。
興奮した観客が終わりを待ちきれず盛大な拍手でした。にぎわいもいいでしょう、宇宙が鳴り響くような曲の終わりの後で、一瞬のしじまが深遠をのぞかせる、というのが私のシナリオだったのですが。

このすごい演奏のあとでまさかないだろうと思われたアンコール、カルロス・クライバーのような棒さばきのもと、モーツァルトのジュピター交響曲の最終楽章。フーガ・対位法の堅牢な建造物を換骨奪胎、高速のテンポで、リズムより流れを強調する解釈で、まるで「ハンガリー舞曲」のような「乗りの」流麗豪華なアンコールピースとしてしまいました。宇宙船の中で聞こえてくるような、パロディのような音楽。ルチアーノ・ベリオがマーラーをコラージュしたときのような、一種異様な感覚にとらえられました。優秀なアンサンブルと異形の表情にどきどきしました。

今日の演奏会、トランペット、ホルン、と奇跡と思うような瞬間がありました。弦の響きも落ち着いた上に輝きも乗るという満足させてくれるものでした。
ヴッパータールはライン川に注ぐヴッパー川のほとり、人口35万の工業都市。デュッセルドルフなどとルール工業地帯を形成する街。この規模の都市のオーケストラが優秀な楽員を抱えている。振り返り見れば、中央と地方、音楽への親しみ、文化についての価値観、などなど思いつくことは多いけれども、音楽を支える力を見たときに彼我に横たわる溝の大きさにはため息が出てしまう。


ヴッパータール交響楽団
2010年10月11日月曜日14時開演
福島市音楽堂大ホール

指揮 上岡敏行

ワーグナー:ジーkフリート牧歌
マーラー:交響曲第5番嬰ハ短調