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楽譜   演奏会見聞録

07年6月1日

アンドレ・ワッツ ピアノリサイタル

 演奏されているのはバッハで、バッハならではの音の響きは聞こえるのですが、ピアノの音の良さに作曲家も曲名もどうでもよくなってしまいました。
 すべての音が濁らず美しく響きます。ひとつひとつの音に実(み)が入っています。リズムにビートがあります。「ねばり」というか「ため」というか。音がいったん鍵盤に吸い付いて、それからおもむろにピアノを離れてくる、そんな感じです。ゆっくりと速度を増していくところでは、ためた音が重しとなってひきずられるようです。輝き、重み、強さ、そして情感が一体となった美しさです。

 テンポはゆったりとしているように聞こえます。実際は遅いテンポで弾いているのではないようです。トリルでは右手の速度を落とし、順番にひとつひとつの音が聞こえてきます。こうして、際だったそれぞれの音が総合されて、大きく芳香を放つ花が咲いていきます。声でリズムをとったり、時に歌ったり、見た目にこだわる様子はないのですが、美しく大きな音という資質を武器に、豊かな歌を広いところに押し出していきます。
 ベートーヴェンでは、緩急の振幅がさらに大きくなり、切迫した激情、宇宙が歌い出すかのような壮大さ、人の心のぬくもりのようなものまで聞こえてきます。

 この夜の一番の聞き物は、後半最初のベリオとドビュッシーでした。ベリオ「水のクラヴィーア」とドビュッシーの「沈める寺」は続けて演奏されました。
 しずくが落ちて波紋が広がる光景が、緩急自在なリズムと多彩な音色で描かれ、瞑想の世界に誘うベリオの曲から、ドビュッシーの海の静寂へと、違和感なく移ることができたのは、ただ静かにそこにある「水」の性質によるのでしょう。
 「沈める寺」は、神の怒りに触れて海の底に沈んだ街が浮上し、海面に姿を表した教会から鐘の音が響くという幻想的な風景が描かれているということですが、教会の浮上する場面でしょうか、圧倒的な力感で表現されていました。

 ひっそりと内に秘めたような「暗い雲」から、心を開くようなやさしいトリルが聞こえ、強い中低音の動きで豊かに話しかけてくる「エステ荘の噴水」。こんなに強く美しく明快な低音の「歌」はいままで経験したことがありません。
 袖に戻らず、続けてショパン。嬰ハ短調の練習曲は真情あふれる内面の歌が豊穣な世界を広げ、やるせない旋律のヘ短調の練習曲は思いを聴いてくれる旧友の声のように響く。
 そして、いにしえの英雄の物語を聴くようなト短調のバラード。美しいメロディーが繰り返され、やがて決断したように激しく昂揚し、見得を切るような幕切れ。

 デビューからずっとスタインウエイだったが、90年代はヤマハを弾いていたようだ。当夜はスタインウエイ、打鍵がどんなに強くても割れも濁りもせず、彼の求める響きを鳴らしていたのではないかと思う。繊細だったり、輝かしかったりというのは、感じる機会があったが、弾き手によってこんなに強い響きを聴かせるピアノであることは初めて知りました。ホールの響きもよけいな音を付け加えず、演奏者の音への思いをそのまま伝えてくれるいいホールだと思いました。

 不安な曲調や切迫した曲調でも、沈潜はしても陰鬱にはならない。楽天家なのだろう。そして打鍵の強さ、リズムの腰の強さと柔軟さという恵まれた資質を磨き上げた音の美しさ、この振れ幅の大きな表現はとても録音には入りきれない。コンサートで聴くことの大事さにあらためて気がついた夜だった。

 会場に早く着いて近くを散歩していたら、やはり散歩していたピアニスト本人と顔を合わせました。藤色のジャケットで、にこやかな表情で肩を揺らして歩いていました。あせって考えもなしに日本語で声を掛けると、"Welcome!" と答えてくれました。擦れ違ってから振り返ると、肩先から紫煙が盛大に噴き上がっていました。30年も前のガーシュインの曲を集めたレコードの写真で、右手の指にシガーをはさんでいたのを思い出して、探してみました。”WATTS BY GEORGE!”。そしてバーンスタインとのブラームスの2番の協奏曲、友だちに教えてもらったレコードで、これがワッツを聴いた最初です。「沈める寺」収録のリサイタル盤もでてきました。昔のレコードでしばらく楽しめそうです。

 アンコール曲は「P-N夫人の回転木馬」Carrousel de Madame P. N. (S 214a) リストの晩年の小品で、楽しいリズムの可愛い曲でした。


アンドレ・ワッツ ピアノリサイタル
2007年6月1日金曜日18時開演
ホワイトキューブ(白石市文化体育活動センター)

J.S.バッハ:コラール前奏曲「主イエス・キリスト、われ汝を呼ぶ」BWV639(ワッツ編)
J.S.バッハ:コラール前奏曲「汝にこそ喜びあり」BWV615
モーツァルト:ロンド ニ長調 K.485
モーツァルト:ロンド イ短調 K.511
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第7番 ニ長調 op.10-3

ベリオ:水のクラヴィーア
ドビュッシー:沈める寺 (前奏曲集第1巻から)
リスト:暗い雲
リスト:エステ荘の噴水
ショパン:練習曲 嬰ハ短調 op.25-7
ショパン:練習曲 ヘ短調 op.10-9
ショパン:バラード第1番 ト短調 op.23