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楽譜   演奏会見聞録

10年1月10日

上原彩子

演奏会に出かけることに決めたのは、バッハの平均律がホールでどのように響くかという楽しみがあったからです。このもくろみは大成功でした。
1番ハ長調、7番変ホ長調、8番変ホ短調の順です。
秘めやかにハ長調の前奏曲が始まる。洞窟の中のようなエコーを伴って。あっさりしているが暖かさが感じられる音はサワークリームのよう。この曲集では、フーガでいくつかの声部が歌い交わすところがあるが、この歌が声部の中に埋もれず、ふわりと浮き上がるように聞こえるのが心地よい。高中低の3人のどこまでも続く親しいつぶやき。
宇宙船の中にいるみたいなふんわりした残響。心地よいバッハでした。内声部がこんなに温かく弾かれるのを聴いたのは初めてかもしれません。

タネーエフは、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番のモスクワ初演でピアノを担当した人で、作曲家でもあり、この前奏曲とフーガ嬰ト短調作品29は有名なのだそうです。
バッハの前奏曲のようなラメントで始まったのですが、幻想的、劇的な動きを見せて、光が散らばるようなめざましい曲です。絢爛で見せ所の多い曲ですが、技巧に凝った演奏の難しい曲ではないかと想像します。音がつぶれたり、にごって聞こえなかったり、そういうことは全くありません。

さて、彼女のベートーヴェンはいかに。
30番のソナタ。人なつっこいメロディーで始まりますが、あくまでもやわらかい響き。バッハと同じようにエコーを武器に、ホールを宇宙のように響かせていきます。ピアノから人の歌が聞こえてくるようです。Google Earth で上空から近づき地上の家を見るときのように、宇宙から地上に飛び込んでいってこちらの人の話、あちらの人の話と聞いてまわるような感じさえします。
バッハでもそうでしたが、ある声部の歌が引き立って聞こえてきます。演奏者が聞き取った重要な声部・・・のようです。音を矯めるというのか、歌い出しを一瞬遅らせて、加えて、並行する音とは別の音色で弾いているようです。やさしい音で線を目立たせることができるというのが、技巧というものかもしれません。

どうやら彼女にとって古典派の音楽は、宇宙という広がった世界と、そのどこかから聞こえてくる声。ホールを宇宙と見立てて舞台の俳優が台詞を読むような俯瞰の宇宙観・・・ミクロコスモス=人間の小宇宙。ベートーヴェンとバッハのそれぞれの人肌の違いまでは感じられませんでしたが、これは聞き手の鈍感な耳のせいでしょう。

後半はリストです。
1曲目。第1部と音色が全く異なりました。同じピアノなのに音色が一変、機能的なひびきで、エコーを感じさせず、開放された強い響きと精密な弱音を聞かせます。
音色が変わったせいでしょうか。バッハの主題による変奏曲といっても、感じられるのは技巧だけ、立派でめざましくよく響きますが、バッハはどこ? 戸惑いを感じます。リストを聴くときはいつもですが。
西村朗「神秘の鐘」より「薄明光」。この鐘がさわやかに響きます。貝殻でできた風鈴、サヌカイトの楽器のような心地よさで、薄日が差し込むようなきらめきです。低声部のドローンの上で軽やかにさざめく細かな音たち。武満徹のピアノ曲を思い出しました。
鐘の続きは「ラ・カンパネラ」。鮮やかな技巧、完璧な演奏でした。
続いて、ペトラルカのソネット。夢見る詩情。音でできた詩、といった風情で世界のあらゆる美しさが表現されているようです。飛翔、侠気、幻想、底鳴り、嵐、風、波、輝き、煌めき、光、嵐、幻想、反撥、疾走、諧謔・・・感情で表されていないものはないようです。曲の元になっている詩は修道士の秘めた恋の苦しみと喜びを歌ったもののようですが、恋とはこんなにもたいへんなもの・・・。
そして、ハンガリアン・ラプソディ。もう付け加えることは何もありません。

わたしはリストが苦手でよくわかりません。どんな人間だったのかがさっぱりわからないのです。でも、今日のピアニストが、鮮やかな手際で重層的な響きの構成を見せてくれたことはわかりました。作曲者の主情といったものが技巧の彼方にほの見えたように感じたこともあるのですが(ケマル・ゲキチとアンドレ・ワッツ)、今日はここまででした。

アンコールは、リスト、愛の夢3番、うっとりさせてくれました。拍手に答えて、カプースチン 8つの演奏会用練習曲 作品40 第1番 前奏曲、ラフマニノフ 前奏曲 作品32の5。

ピアノはヤマハでした。バッハでリヒテルを思い出していました。響きが似ていたからでしょう。今日の大ホールは美しく響く宇宙でした。

「なぜ私がヤマハを選んだか。それはヤマハがパッシヴな楽器だからだ。私の考えるとおりの音を出してくれる。普通、ピアニストはフォルテを重視して響くピアノが良いと思っているけれど、そうじゃなくて大事なのはピアニッシモだ。ヤマハは受動的だから私の欲する音を出してくれる。心の感度をそのまま伝えてくれるんだよ」(03年10月21日朝日新聞音楽展望 吉田秀和「素顔のリヒテル」より)

リヒテルの音はホールの屋根を越えて放射されるような芯のある響きでした。今日のピアノがこれ以上はないほどの美しい響きだったのに、こんなことを言っては欲が深すぎるでしょうか。

Acousticsコンサート vol.2 'piano' 上原彩子
10年1月10日日曜日 14:00開演
福島市音楽堂大ホール

プログラム
バッハ:平均率クラヴィーア曲集第1巻より 第1番ハ長調、第7番変ホ長調、第8番変ホ短調
タネーエフ:プレリュードとフーガ嬰ト短調Op.29
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第30番ホ長調作品109
リスト:J.S.バッハのカンタータ「泣き、悲しみ、悩み、おののき」の通奏低音とロ短調ミサの「クルチフィクス」による変奏曲
西村朗:神秘の鐘より第1曲「薄明光」
リスト:パガニーニによる超絶技巧練習曲集より第3番「ラ・カンパネッラ」
リスト:巡礼の年報 第2年「イタリア」より第4番「ペトラルカのソネット第47番」、第5番「ペトラルカのソネット第104番」
リスト:ハンガリー狂詩曲第2番嬰ハ短調