演奏会見聞録
11年7月16日 寺神戸亮&曽根麻矢子 |
無伴奏チェロ組曲第1番。ヴァイオリニストがひとり、自宅でのように自然に登場、かまえる様子もなく、無伴奏で弾き始める。ヴァイオリンよりヴィオラよりだいぶ大きい。ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラ=肩掛けチェロ。木質、木の柔らかさを感じさせる響き。 次はチェンバロの独奏、フランス組曲第5番。しばらく聴いているとふたつの声のあいだからもうひとつの声が聞こえるときがある。うれしいような、不思議なような。声と声の対話。こどもたちが笑い泣き、駆け回り、つまづいたりするような可愛らしい世界、愛くるしさ。チェンバロの音が聞き取れるか心配だったが杞憂だった。しみじみとしたやさしい音。この曲は最初のチェロ組曲と同じト長調、この調性は幸せな感じがする。 ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのソナタ第2番。再びヴィオロンチェロ・ダ・スパッラの登場。変わって表情が明るくなり、開いた音に聞こえる。合奏では響きを変えるということなのだろう。ニ長調、ヘンデルのヴァイオリン・ソナタを思いだしたのは同じ調性だからか、のびやかな歌が聞こえたからか。 後半はヴァイオリニストがヴァイオリンを(!)たずさえて登場。拍手の終わりと曲の始まりのタイミングが絶妙、前半もそうだったが、自然に曲に入って音程もはじめから安定している。人柄が表れるのかしら。 ヴァイオリンとチェンバロのソナタ第3番。節度のあるふくらみと息づかいで明と暗の世界を行きつ戻りつ、旋律の線は揺られながら流れていく。糸は細くてもどこまでも途切れない。チェンバロのわかりやすい軽い動きと、細やかな装飾音に乗って、ヴァイオリンが明るく歌ったり、踊ったり。表情を動かしたり、体を揺らしたりはしないが、音だけで人間の生き方、心の動きが伝わってくるようだ。余計なものをつけて重くし、色をつけ、ウィンドウに飾るものを作るのが音楽の商売だというこんな世の中で、ひとつろうそくを見つけたような思いだった。 アンコール曲、マタイ受難曲のアリアだ、と。"Erbarme dich"(憐れみたまえ わが神よ)はマタイ受難曲第2部、イエスのことは知らないと断言したペテロが鶏の鳴き声にイエスの預言を思い出し涙にくれる場面で歌われるアルトのアリア。タルコフスキーの映画「サクリファイス」でも流れました。ガーディナーの盤ではわたしのアイドル、マイケル・チャンスが歌っています。 佐倉市民音楽ホールは600席ほどで聴きやすいホールでした。後ろのほうの席でしたが、チェンバロ、ヴァイオリンのそれぞれの絡み合った声部もよく聞き取れました。被曝災害のあと、はじめて演奏会を聴きに行く余裕ができて、探しているうちに見つけました。この1月に地元でのバッハ・コレギウム・ジャパンの演奏会で心にとめた寺神戸亮のバッハということで出かける気になったのです。長嶋茂雄の出身地という記憶はありましたが、観客の家庭的な雰囲気が、演奏者のかざらない清潔な人柄と相まって、心にしみる音楽になったようです。開演を知らせる鐘の音にはジョン・レノンの「マザー」を思い出しました。 寺神戸亮&曽根麻矢子 J.S.バッハの世界 寺神戸亮:ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラ、ヴァイオリン プログラム
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