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楽譜   演奏会見聞録

04年10月21日

新日本フィルハーモニー交響楽団
指揮 本名徹次

明快な「魔笛」序曲。モーツァルトの人なつこく、そのくせ品のよいフレーズがわき出してくる。曖昧なところのないすっきりした響き。第1ヴァイオリン8人のまん中あたりからふわりと浮かんでいく羽根でなでるようなあたたかさ。まっすぐ飛んでいくが角はない木管。ドレスデンのオーケストラを聴いたときにはじめて気がついたモーツァルト以外のだれにもない響き。

プログラムに「秘密結社フリーメースンの思想が秘められ・・・奥の深い作品」と書かれた「魔笛」。オペラは教養のためにあるのではない。黒テントの佐藤信がこのオペラの演出を担当して「魔法の笛」という題で上演したときに、音楽評論家丹羽某が非難していたのは、人物の描き方が軽薄で崇高さに欠け、音楽の奥にあるものが現れていないというようなことでした。(30年も昔に新聞で読んだ記憶で書いています。)「魔笛」を神聖なもの、二つとないもの、と考えることで失われるものは大きい。モーツァルトはもったいぶらない。気持ちを爽快にしてくれるフレーズの連続、心に懐かしさを呼んでくる天才。

今日も暗く重々しい和音ではじまると思っていたから、楽しい裏切られ方だった。指揮者は急がない、騒がせない、中庸。定期公演、地方公演とステージをたくさんこなす楽団ならではの、音の受け渡し、響きのまとまりが心地よかった。


ピアノの構造体が金属でできていることを思い知らせるスタインウェイの機能的な響き。こもらない、一音一音がきちんと分離する、という性能を生かした児玉桃の確実な技巧。指の動きの正確さもあって、小気味よく清潔なチャイコフスキーが流れていく。

ポリーニのショパンの練習曲のレコードが発売され、それまでもやもやしたのをショパンだと思っていた人たちがびっくりしたという故事を思い出す。ポリーニは明晰さを失わずに突き進んできた。パリ在住の児玉嬢の未来やいかに。彼女の活躍を見守るという楽しみがまたひとつ増えた。

オーケストラもチャイコフスキーだからロシア、ロシアだから地方色豊かにということはなく、街を吹き抜ける秋風のようなさわやかな響き。台風一過の晴れ間に似合う。


名曲、ドヴォルザークの新世界。ヴァイオリンのパートが耳を引きつけた。コンサートマスター豊嶋泰嗣(この人の多彩な活躍に注目!)の主導でテンポを揺らすのがとっても魅惑的。

指揮者が意図するのは「鳴り交わし」、symphonicとでもいうのか、それぞれのパートをくっきり響き分けさせ、あちらこちらから音を伸び上がらせる。これもオーケストラがしっかりしていないとできないことのように思う。

2楽章ではヴァイオリンとチェロの対話が何とも素敵。

オーケストラは熱演、4楽章の途中でチェロのおっさんが汗を拭いているのを発見した、客席は寒いのに。

ドヴォルザークはいつでも健康的。明るい日ざし。ボヘミアの村や町。お祭りの活気。向上心と信仰心、善意と希望に満ちた社会が地球上にあった。この国でも50年前にはそういう社会がまだあった。拝金の悪魔に魅入られて、売り渡した庶民の心、ふるさと。音楽で思い出し、あこがれることしかできないのだろうか。

おまけのアンコールは、チャイコフスキー 弦楽セレナード第2楽章のワルツ。心がうきうきする楽しい曲だった。


県文化センター 2,000 の客席を埋める大観衆。前の席の少年、高校生中学生の少女たち、おばさんたち、お年寄りの夫婦たち、オーケストラは大衆のもの。このわけのわからない時代に、オーケストラに向いていたみんなのあたたかい眼差しが、世界に伝わっていきますように。


2004交響楽の夕べ
新日本フィルハーモニー交響楽団演奏会
指揮 本名徹次
ピアノ 児玉桃
2004年10月21日木曜日午後6時30分開演
福島県文化センター

■モーツァルト 魔笛 序曲
■チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番変ロ短調
 ピアノ 児玉桃
■ドヴォルザーク 交響曲第9番ホ短調「新世界より」