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楽譜   演奏会見聞録

05年6月21日

プラハ交響楽団

チェコの楽団にチェコの音楽をさせるのは芸がない、などと不満に思いながらパンフレットを読むと、「両岸には狩りの角笛と田舎の踊り」「月の光、妖精の踊り」とあった。同じ国に生まれ同じ自然の中で育ったスメタナの末裔たちの霊感に期待した。


コンサートマスターを先頭に楽員の登場。全員が揃ったあとでコンサートマスターがもったいをつけて登場する今風のスタイルに慣れていたので好感。


弦は奏者たちの全員で壁を作るように、固まりとなって響いてくる。奏者の頭上彼方に一本の筋が昇っていく、ウィーン、ドレスデンという古都のオーケストラとは違う響き。夢を見るようには響かないが、基礎の上に壁ができていく強い構造のあらわれかた。この国のオーケストラに共通した低音から高音まで見通しのよい均質な響き、日本コロムビアから発売されていたレコードで高音が明確に響いて新鮮だったのは、これだったんだとあらためて納得。


全然黙っているっていうのも悪くないね
つまり管弦楽のシンバルみたいな人さ
一度だけかそれともせいぜい二度
精一杯わめいてあとは座ってる
 ──谷川俊太郎「夜中に台所でぼくは君に話しかけたかった」(c)1975


金管とシンバルのクライマックス。シンバルが大活躍する曲を久しぶりに聴いた。これでもかというほど小気味よいシンバル。胸の前で打ち鳴らして頭上高く放射する喜び。
そのあとで、嫋々(じょうじょう)と流れる弦がさらにクライマックスを作る。劇の世界のように広がるボヘミアの原野。ロマン派作曲家としてのスメタナをあらためて意識させてくれた。
オーケストラの表現に上下はなく、持ち味があるだけという、音楽の奥深さ。


ベートーヴェンの「皇帝」協奏曲。
まっすぐ進む管弦楽、まったりしたホルン、粘り腰の強い弦。一方で、巨匠風にテンポを揺らすものの、遅れがち、軽快さに欠け、流れに棹さすようなピアノ。
アンダンテに移ってからは、弦の海の中でたゆたうピアノ。だが、梅雨時の季節に合わせたのかどろどろで音が立ち上っていかない。
ベートーヴェンの整理された構造を表現するには、あの壁のような弦が余計な重さを引きずる。落ち着かないピアノにおつき合いしているよう。
ソリストの魅力で協奏曲をリードするには非力、オーケストラもピアニストの陰でうまく立ち回るほど器用ではないという、不幸な組み合わせ。
このオーケストラにこの指揮者、そしてこのソリストという必然性が感じられない。
買い手市場に売り込みたい楽団、客寄せのための日本人指揮者と日本人ソリスト。・・芸術に奉仕するというより資本の論理そのもの。観客のブラボーがうら寂しく響いていた。


さて、新世界。
ドヴォルザークの交響曲は、しっかりした構造に重きが置かれたせいか、地味な響きの積み重ねで、生硬にも、近寄りがたくも感じられるが、作曲家最後の交響曲は美しい旋律や、立体的な響き、なつかしい表情で、いつ聴いても頬をゆるませてくれる。
演奏する人によっては派手にもなり、昨年の水戸室内管弦楽団の演奏は、それぞれの奏者が腕に物をいわせた、油絵の具を分厚くキャンバスに載せたような表現だった。
このオーケストラのこの曲は、放射するのでも内にこもるのでもなく、均一にブレンドされた明確で強い弦の基礎のなかから、芯の強い木管、率直に伸びてくる金管とが、壁画のように一体となる。つや消し。まっすぐな表現をするオーケストラだと思った。
そのままで十分内容のある音楽になっているのに、馬に鞭をふるうような指揮が、大向こうにこびるようであまり好きになれなかった。オーケストラも客商売というところだろうか。


アンコールはシューベルトの「楽興の時」第3番のアレグロ・モデラートの弦楽合奏版。魅力の弦が表情豊かで楽しめた。
続いて、ドヴォルザークのスラブ舞曲作品46の第1番ハ短調。指揮者のサービスだったのか、快速曲をもっと快速に、管弦楽をフルにならして大団円。


ふくしま国際音楽祭《プラハ交響楽団》
指揮:小松一彦
ピアノ:仲道郁代


2005年6月21日火曜日午後7時開演
福島市音楽堂
■スメタナ 交響詩「わが祖国」より「モルダウ」
■ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番変ホ長調「皇帝」op.73
■ドヴォルジャーク 交響曲第9番ホ短調「新世界より」op.95