演奏会見聞録
14年9月21日 ウィーン・フィルハーモニー |
近江兄弟社って知ってますか。メンソレータムを製造していました、いまはメンタムですが。「兄弟」はキリスト教の信仰からきています、人類皆兄弟。モーツァルトを聴いていてこの会社の名前を思い出したんです。 シンフォニア・コンチェルタンテ、協奏曲のような交響曲、独奏者はヴァイオリンとヴィオラ。枝の揺らぎ、葉擦れ、葉裏に映る光の陰影を思わせるような音のたゆたい、ヴァイオリンが口ずさむと今度は別の枝が揺れるようにヴィオラが口ずさむ。同じお母さんから生まれた兄弟のよう。でも独奏者だけではないのです。 第一ヴァイオリン群のひとりひとりが一枚の葉、それぞれの枝での照り具合がやはり同じ血を分かった兄弟のようなのです。コピーして同じものがいくつもあるのではありません。目が違い、声が違い、別の人格なのだけれども話を聞いたときにどこかで聞いたような、あ、あのひとと兄弟か、というような。違う音が一緒に弾かれていて、その真ん中あたりからひとつの響きがすっと立つのです。溶け合って、ひとつひとつの楽器がひとつの主張になる、魚の鱗の一枚一枚が全部で魚になるような。これが第一ヴァイオリン群、第二ヴァイオリン群、ヴィオラ群、……木管群、と全部のパートがそうなのです。 眺めは夕方の陽だまりでしょうか。鄙びたギャラント、なつかしい響き、独奏者のキュッヒルさんとコルさんにはっきり聞こえましたが、その街の人たちが口ずさむときの節回し、と言えばいいでしょうか。それも達者な軽口というのではなく、骨っぽい音、枯れ枝のような、煉瓦のような、実のあるのが外から見える。カザルスのチェロのうなりのような、と思いつきました。素朴が優雅でもあり気高くもあり。きっと、兄弟というのか、家族というのか、地域というのか、連帯というのか、信仰あるいは信頼の共同体と呼んでもいいようなものが、このオーケストラの根っこのところにあるのでしょう。 直線と幾何学で模様ができていくのが近代オーケストラだとしたら、波の動き、もしくは魚の群れ、水面に反射する分散光のような有機的な動き、これは前近代。これは指揮者がモーツァルトに求めているものだったりするのかしら。あるいは指揮者がウィーン・フィルハーモニーに求めているものだったり、そしたら、たいへんだ、これは事件です! 憂鬱というより、もっと翳の濃いモーツァルトの憂愁、解決されることのない宇宙の深淵の前でのため息。ひとつひとるの音の出し方から始まって積み上げられた大伽藍。こんな音楽を演奏会ではじめて聴きました。 ティンパニとハープ登場。後半はロマンティックな音楽。 シベリウス。弦の音はしっとりして重さのある革のかたまり、それが波となってあちこちから寄せる。かたまりは一様に明るいのではなく、柱の丸み、仏像のふくらみ、光と影が溶けあったときのような艶をのせている。耳が曲に向かわずに響きの彩りに聴き入っている。 ドヴォルザーク。日向のにおいとか祭りの愉しさとか言うよりもドラマ。闇があり、色があり、光りがある。餡子を練って羊羹になった、コク・ツヤ・テリ。 アンコール。シュトラウス。憂いもなく。 青天大安吉日、ウィーン・フィルハーモニー。足掛け40年、ベームのブラームス以来でした。次に聴ける機会はいつくるかなあ。次回40年後!のグスターボを想像してみる。 帰りの駅のホームで指揮者に遭遇、写真をお願いしたら笑顔で肩に腕を廻してくれて、ラテンの血だなあ。hermano、兄弟になったような気がして。 2014年9月21日日曜日16時開演 モーツァルト:協奏交響曲 変ホ長調 K364 |