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楽譜   演奏会見聞録

04年8月22日

NHK交響楽団
指揮 ベルンハルト・クレー

NHK交響楽団はどんな音を出すのか楽しみでした。むかし、外国のオーケストラがなかなか聴けない頃に、読売交響楽団のドイツ風の音、日フィルのアメリカ風の音、N響のフランス風の音と勝手に色分けして、N響の出す音の意味があまりよく分からなかった。プログラムにあったように「日本を代表するオーケストラ」といわれても期待せず(落ち着いて)会場に向かった。


さて、クライバーやカラヤンが颯爽と振る魔弾の射手。せかさず、派手にせず、ロマン派がまだ若い時代のさわやかな息吹が伝わってくる。ホルンとクラリネットの響きが柔らかく、気持ちがよくなった。楽しみな幕開け。

不満点1 オーケストラの個性である自分たちだけのスピード感、ビート感が感じられない。舞踊のステップのように、ためて吐くような呼吸のリズム、自分たちの生活の中で身体がついつい動かされるリズム、オーケストラを聴いているうちに聴衆がいつの間にか一緒に呼吸している、あの感覚がない。ドイツ音楽・フランス音楽とどこの国の音楽でもこなしていくうちに、無くしてしまった遠い記憶。

不満点2 魔弾の射手の森は底知れぬ暗い森、都市の整備された森林公園ではありません。


ブルッフのヴァイオリン協奏曲。真紅のドレスでソリスト登場。

オーケストラの短い序奏に引き続いてソロが始まると、むせかえるような情念の世界が現れる。どこから来るのか分からずしばし不安になる。時代を重ねてみると、ゆっくりとしかし確実に近代化が進んでいく社会に、取り残される人、変化の遅さにじれる人、鬱々としたものが、階段の下で青白く燃え上がる。

ただし青白く燃え上がったのは独奏ヴァイオリンで、オーケストラはあかあかと燃え上がりそうになる。指揮者が抑えかつ低弦にアクセントをつけて独奏を引き立てる。第1ヴァイオリンの合奏は燃え上がりたくてしかたがないみたいだ。


今年はドヴォルザークの没後100年。月初めに高校生のオーケストラで7番の交響曲を聴いて今日は8番、10月には9番が聴ける。

開始早々くびきを離れたようにオーケストラが舞い上がる。音量は上がるが響きは濁らない。ひとつひとつの楽句が山を登り下りると、次に続く楽句は前の楽句と入れ替わりに山を登り下りるという受け渡しが続いていく。あたたかく懐かしいメロディーの交換、ああドヴォルザーク! 第2楽章のソロのヴァイオリンの美しさも、この親密さに包まれて響く。

野の風景が浮かんでくる。同じ野の風景でもベルリオーズの幻想交響曲の真空のような風景とは違った、秋の日なたのようなぬくもりが人の気配を感じさせる。やがて突然に吹いてくる風? それとも夜?

第3楽章スケルツォの一度聴くといつまでも耳に残るワルツのメロディー。雨上がりの肌のようにしっとりして、それでも軽く弾むリズム、曲の要求に(私の勝手な要求に?)いくらか足りない感じなのは、オーケストラを生んだ風土の「血」のせいか。

トランペットのファンファーレで始まる第4楽章、活躍の場が多いトランペット奏者がうれしそうに見える。それぞれの楽器が気持ちよく表に現れて陰に消えていく。指揮者の頭の中で楽譜が整理されて、受け止めるこちらもすっきりと考えることができる。むやみに盛り上げる指揮者が多いこの楽章も、適度なスピード感で自動車の窓に映る風景のように過ぎていく気持ちの良い指揮ぶり。

プログラムによるとライプツィヒのトマス教会合唱団の出身、リューベック(ハンザ同盟の都市ですね)の歌劇場で総監督を12年したとあり、オペラ劇場で積み上げてきた確かさなのだろうなあ、と感心してしまった。

北ドイツのブラームスとも似た、ボヘミアのドヴォルザークの人なつこさ、故郷やそこに暮らす人たちへの信頼、同志愛といったものに共感することができた気持ちよい演奏だった。


アンコールにはメンデルスゾーン「真夏の夜の夢」のスケルツォを颯爽と響かせてくれた。ホールにアンコールの曲名が掲示されていて、駐車場に向かう聴衆が顔を見合わせて話題にしていたのがうれしかった。

「日本を代表する」いくつかのひとつで、どんな指揮者にも、どんな音楽にも合わせていけるオーケストラ。これが私たちの社会が教養という名で音楽に求めたものであり、思考を切り開く基礎となる個性、を軽んじてきた私たちが育てた音楽なのだなあ。苦いものを感じた夜でした。


NHK交響楽団
指揮 ベルンハルト・クレー
ヴァイオリン 漆原朝子
2004年8月22日日曜日午後6時開演
福島市音楽堂

■ウェーバー 歌劇「魔弾の射手」序曲
■ブルッフ ヴァイオリン協奏曲第1番ト長調作品26
■ドヴォルザーク 交響曲第8番ト長調作品88