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楽譜   演奏会見聞録

04年6月11日

北ドイツ放送フィルハーモニー
指揮 大植英次

ブラームスの悲劇的序曲。
ライネ川を遡る北海からの風はきびしく強い。ハンザ同盟自由都市ハノーファーの男たちの歌声は無骨、荒削りで、ひたすら大声を出す、ということか。市場町のがなり声に熱がこもり、その裏にオーケストラのしっかりした響き = 市民の声 ? が聞こえてくる時もあるし、ブラームスの激情を表現したのかと1曲目は終わった。

2曲目はリヒャルト・シュトラウス。何がよいのか前からわからない作曲家で、これを機会になんとかわかりたいと聴き始めた。
たっぷりした弦の響きを聴かせ、ときおり思い切った金管の咆哮があり、ショーピースとして面白いのはわかるが、作曲家の思いがわからない。やはり相性が悪いようだ。
拍節感という言葉があるのかどうかわからないが、楽譜で1小節ごとに入る縦棒の区切り、4拍子であれば1、2、3、4の区切りが感じられず、ただ漂うように流されていく。パートごとに性格を表していくというのもあまり感じられず、全体が塊として伸びたり縮んだりして進んでいく。よく言えば有機的、悪く言えば野放図。あとは好き嫌いの問題なのだと納得する。
オーケストラは例によって大音量、外面効果という言葉に思いつく。そういえば1曲目のブラームスは「悲劇的」ではあっても、いつも聴くレコードでは親密さというものが現れていた。今日の演奏では塗りたくられた外面の陰に隠れたのか、ブラームスの人なつっこさが見えてこなかったようだ。
自己顕示と考えてはリヒャルト・シュトラウスさんにも大植英次さんにも失礼なのでしょうか。大植さんがアメリカの聴衆に受けることでキャリアを築いてきた人で、ハノーファーが見本市の街で、来年指揮をするバイロイト音楽祭は世界中から観光客が集まるということごとを一連のものと考えるのは、音楽の聴き方からするとちょっとまずいとは思うが、こういうタイプの音楽の鳴る場所ではなぜか場違いな感じを持ってしまった私でした。

後半はベートーヴェン。
最初の和音の強奏から、蒸気機関車のように突っ走る。指揮者の指示するテンポにオーケストラが付いていけないほど。それを承知で音楽を盛り上げるということだろう。ヴァイオリンを左右に配置した効果で、旋律が高いところで交差する。ショーのような盛り上げにどんなに痛めつけられてもベートーヴェンの作り上げた音の伽藍は崩れないようだ。指揮者はベートーヴェンを征服したと思うのだろうか。私はベートーヴェンを聴いていました。

拍手に答えてチューバ、トロンボーンといった金管軍が登場。
ワーグナー ローエングリン第3幕への前奏曲
シュトラウス兄弟 ピチカート・ポルカ
ブラームス ハンガリー舞曲第5番
観客は盛り上がり満足して帰途についたようだった。

俗物という言葉を思いつき、先週テレビで不乱の表情で「美しい水車小屋の娘」の伴奏をしていた内田光子の「指揮者なんて、音楽が好きだからやっているわけじゃないのですよ。自分が指揮棒を振っているときの美しい姿を喜んでいるだけ。多いでしょ、そういう人。」(婦人公論2004年2月7日号)というインタビューを思い出しながら、しかし、多くの人が音楽を楽しむアメリカのような社会になったこの国を考えると、このやんちゃな指揮者を愛すべきか、とも思う。指揮者の大きい身振りに苦笑する観客もいたが、冷やかしに負けてはアメリカで名を上げることはできないし、みんなで一つの満足を共有できるのは悪いことではないのだろう。
でもハンガリアンダンスで観客の手拍子を求めるのはやめてほしいと思った。あなたにとってブラームスは観客を盛り上げるただそれだけのものですか。

ハノーファー北ドイツ放送フィルハーモニー
指揮 大植英次
2004年6月11日金曜日午後6時30分開演
福島市音楽堂

■ ブラームス : 悲劇的序曲 op.81
■ R.シュトラウス : 交響詩「死と変容」op.24
■ ベートーヴェン : 交響曲 第3番 変ホ長調 op.55「英雄」