演奏会見聞録
05年7月5日 モルゴーア・クァルテット |
幼なじみのやんちゃ坊主やままごとをしていたおとなりの女の子を思い出すチャーミングな第1楽章。タタタターッ、タタタターッという走句が何度も繰りかえされてソナタ形式の均衡が積み重ねられていく。 晴れやかな青空を仰ぎ見るようなさわやかな主題と、ぞっとするチェロの声音、おじいちゃんが電燈の灯りの下でしてくれた恐いけれども人なつこい話のような主題が、交代して現れる変奏曲が第2楽章。タリラリラー、タリラリラーと楽器の間で受け渡す様子は、こたつ板を傾けて蜜柑を転がすようなあたたかさ。 メヌエットの第3楽章、体が自然に揺れてくるような楽しさに・・そうだ、もっとハイドンを聴こう・・とテレビコマーシャルのような言葉を思いつく。世の中はむずかしくない、楽しみながらゆっくり歩いていくものなんだ、そう言っているような気がする。 大バッハが亡くなった1750年にハイドンは18歳、この曲が作曲された1787年のハイドンは55歳、エステルハーツィ公爵家の楽長の職の傍ら、大バッハの息子C.P.E.(カール・フィリップ・エマニュエル)バッハの音楽を研究し、とか、バッハの曲が演奏されたスヴィーテン男爵家の音楽会にはモーツァルトやハイドンが顔を出した、とか記録があるようです。 ボンに生まれ育った22歳のベートーヴェンがウィーンに向かったのは1792年、ハイドンの音楽を勉強するためとされており、この年ハイドンは60歳。ロマン派の人脈のお話でした。
当夜の最大の収穫はウェーベルンの「緩除楽章」を聴くことができたこと。 青二才の頃、自分の登場の音楽はアルビノーニのアダージョだと仲間のひとりが言い、バーバーのアダージョだ、モーツァルトのフリーメーソンのための葬送音楽だ、とそれぞれ言い出す中で、ヘンデルのヴァイオリンソナタニ長調を持ち出してのんきなやつだと言われたことがあった。ヘンデルも心を強く持つことのできる音楽だが、ウェーベルンのこのきびしい希望の音楽を知っていれば、どんなつらい状況にも自分を見失うことはないと、心に強く言い聞かせることができる、そういう音楽でした。
ここで休憩がほしかったが、引き続いて、ペンデレツキと相成った。 いつも弓がこすらないところをあちこちこすっている。パルスとウェーブ。刺激的な表現としてしか受け止められなかったペンデレツキが美しく精密に響く。どんな風に楽譜に書いてあるのだろう、いままで聴いたことのないペンデレツキの美しさ。こんな精緻なアンサンブルを作曲家が意図していたのだろうか! 奇跡!! やっと休憩。これで終わりでも満足できる。
後半はバルトークの6番1曲だけ。つらい音楽だからと覚悟。 人生の責め苦を思わせる第1楽章。 拍手するのを忘れるほどの曲が続いた。 アンコールは、ボロディンの弦楽四重奏曲第2番第3楽章の「ノクターン」と、P.D.Q.バッハの「4手のヴィオラとチェンバロのためのソナタ」、つらい曲のあとの楽しいアンコールを、あまり拍手させずにすんなり始め、花を持ち帰ってコンサートの終わりをわかってもらう仕草といい、気持ちの良いステージマナーだった。 アンコールの前にプログラムの意図の紹介があった。弦楽四重奏曲の世界でハイドン、ウェーベルン、ペンデレツキを三角形の頂点に置き、それぞれが可能性を極限まで試したものとすると、三角形の中心で強い重力の中心となるのがバルトークだ・・・・・・ベートーヴェンが旧約聖書でバルトークが新約聖書・・・。 モルゴーア・クァルテット 福島公演 ハイドン :弦楽四重奏曲 嬰ヘ短調 op.50-4 モルゴーア・クァルテット |