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楽譜   演奏会見聞録

04年9月26日

オーケストラ・アンサンブル金沢
指揮 岩城宏之

「プロメテウスの創造物」で開演。高音域が強調されて、響きが薄く聞こえる。ホールの響きをつかみかねているのか、こちらの耳が慣れていないせいなのか。


アウエルバッハの曲はこのオーケストラの委嘱作品で今回の巡演が日本初演。

おもちゃ箱をひっくり返したようにいろいろな音が散らかって始まり、夜の風景に収まっていく。幻想の世界のような濃い色の中にあこがれの感情がひろがっていく。弱音の独奏ヴァイオリンと弦の低域でのピチカート、揺れて響くビブラフォン(ミルト・ジャクソンの音に似ていた)、バルトークやショスタコーヴィッチにも聴いたことがある、夜の音楽、夢見る夜。

独奏ヴァイオリンには感じ入ってしまった。楽器のやわらかな扱いからは信じられない豊かな響きが、立ち上って弧を描いてひろがっていく。「資質」という言葉を思いうかべる。

こみ入ったリズムを縦の線で区切って、時の系列を明確に刻んでいく指揮が、初めて聴く曲をわかりやすく感じさせてくれる。オーケストラも深い響きを出し始めて、本領発揮。


続くサン=サーンスは、諏訪内晶子のショーピース。ドレスのワインレッドが目にしみる。ロマンチックな曲の性格に、豊富な音色と技巧の名人芸があいまって、目と耳はソリストに張りつけになる。

響きがホールにひろがるのを目で追ううちに、録音用と思われるマイクロフォンを発見。CD発売の情報がはいったら、いの一番に予約するぞ。

観客の興奮も高まり、余韻という言葉を知らないのだろう、音が消えないうちから、大声で長く伸ばしたブラボーの声。それが楽しみということか。

鳴りやまない拍手に、アンコールはバッハの無伴奏ソナタ3番のラルゴ。流れゆく川を見つめているようなしみじみとした感情に、今いる場所を忘れそうになるいい演奏だった。このままいつまでも聴いていたいと思い、拍手を続けたが、ほかの方の拍手は消え入り、残念ながら休憩に入ってしまった。


岩城氏を新即物主義だと思ったことがあった。

フルトヴェングラーやワルターのロマンチックな演奏に対して、楽譜に現れている音符に何も加えず合理的に演奏するやりかたが新即物主義なのだと、クレンペラーやベーム、セルといった指揮者がそうだと言われていた。いま考えると、曖昧な尺度でむりやり垣根をつくっているような感じがするが、要は思い入れに振り回されたような演奏はもう古いということを言いたかったのだろう。老舗の商品に対する新興企業の売り込みのためのキャッチフレーズだったのかもしれない。

そのむかし、ストラヴィンスキーの「春の祭典」を岩城氏が振るのを見たことがある。この曲を野性のリズムの饗宴と位置づけて、オーケストラを咆哮させ、バレエのような振りで楽員を燃え上がらせるような指揮者がいる一方で、岩城氏は指揮棒を縦にきざんで拍節をはっきりさせ、石垣を積み上げるようにアンサンブルを統率していたように覚えている。それでも演奏は白熱していったはずだが、その燃え上がった様子を感じることができなかった私が新即物主義という言葉を思いついたというわけです。


ベートーヴェンを聴きながら考えていたのはそんなことです。

過度にロマンチックになるのを慎重に避けている。リズムを縦の線で示すことで、整理された音が音楽の構造をのぞかせてくれる。作曲家が残した音楽そのものをして語らしめ、ゆったりと、淡々と、味わうように響きを織り上げていく。「巨匠」!

オーケストラの音の明るさは、オーケストラが新しいから? ベートーヴェンではまろやかで落ち着いた音も出していた。ソロの管楽器の音から考えると、明るさは新鮮さと言い換えることができそうだ。ティンパニの雷鳴、ヴァイオリンの雷光、ベートーヴェンの劇性は落ち着いた響きの中でしみ出すように迫ってくる。音の輝きはウィーンフィルハーモニーを思い出すほどだ。腰が少し浮いて感じられるのは比較の相手が強すぎるからだが、乾燥した輝きに濡れたつやが出て、かどがとれたら、と考えると、このオーケストラへの期待が強まるばかり。

小編成ということは、弱音が生きるということ。合奏の中で弱音ならではの美しい丸い響きを聞き取らせることができるということ。最後の楽章ではほかでは聴いたことのない美しい弱音のヴァイオリンの響きを何度も楽しむことができた。


アンコールは拍手が続く中、指揮者のいない舞台で始まった。ベートーヴェンのトルコ行進曲。まもなく下手の袖から岩城氏がトライアングルをたたきながらゆっくりと現れる。そうだ、岩城氏は指揮者になる前は打楽器奏者だったっけ。気を持たせるような足取りでそのまま舞台中央を通り過ぎ、上手の袖に消えて曲が終わった。楽しいアンコール。


思うのはレジデント・オーケストラということ。国立歌劇場があって国立歌劇場管弦楽団があり、フィルハーモニーホールがあってフィルハーモニーオーケストラがあるという伝統のこと。ホールは市民の資産だが、大事にしなければならない資産はその建物を響かせてくれる人間だということ。建物はあるだけではただの箱、箱の中の空気を自分のものとする人たちがいてはじめて建物は命を持つ。

独奏のピアノやヴァイオリンの音が弧を描いて昇っていき、たゆたって消えていくのはこのホールの特徴だが、室内楽や管弦楽でもこのホールならではの響きが見つかるのかもしれず、まだ誰もそのことに気がついていないということかもしれない。このホールを練習会場として使い、定期的に公演するオーケストラがあれば、そういった響きの数々を発見し、このホールでなければ聞くことのできない響きで満たしてくれる。この夜の田園交響曲でヴァイオリンのパートが響かせた弱音の美しさは、そんな可能性を指し示してくれたように感じたのだが。

・・・・・ここから先はやめておこう。幻想の翼を理想に向けてロマン派の音楽が飛翔した先に待っていたのは陰鬱な世紀末とそれに続く戦争の世紀、無限に手を伸ばせるほど私たちを産んだこの大地は広くない。自分が何かできる自信がついたときにもう一度この続きを考えよう。


オーケストラ・アンサンブル金沢
指揮 岩城宏之
ヴァイオリン 諏訪内晶子
2004年9月26日日曜日午後6時開演
福島市音楽堂

■ベートーヴェン プロメテウスの創造物 序曲 Op.43
■アウエルバッハ ヴァイオリン協奏曲第2番 Op.77
 ヴァイオリン 諏訪内晶子
■サン=サーンス 序奏とロンド・カプリチョーソOp.28
 ヴァイオリン 諏訪内晶子
■ベートーヴェン 交響曲第6番ヘ長調「田園」Op.68