演奏会見聞録
05年7月20日 金丸葉子 |
ヴィオラのリサイタルが初めて。室内楽の名脇役として要所を締め、ときに表にたって音楽を飛翔させる、あの楽器が主役というので、情報が入ってすぐにチケットを手配、この日を楽しみにしていました。 名手たちの悲壮感あふれた演奏に心を揺れ動かされる。アルペジョーネ・ソナタをチェロの演奏で初めて聴いたときには、そこが好きになったのだろう。録音をいくつか聴くうちに、悲しみと憧れがないまぜのシューベルトのほほえみにますます惹かれたのだろう。 この曲のほかにも、いくつかのピアノソナタや弦楽四重奏曲、「ヴァイオリンとピアノのための幻想曲」、ピアノ五重奏曲「鱒」、シューベルトの室内楽には、親しい友だちのぬくもりがいつもある。 第1楽章のアレグロ・モデラートから、こんなに遅くて音楽が成立するのかと思われるテンポ。ゆったりとした中でひとつひとつの音を味わうように、ヴィオラが豊かな音をホールいっぱいに広がらせる。ピアノも楽譜では音符の密度が高くないのだろうか、一音一音を確かめるように響かせて、伸びやかに曲が進んでいく。ゆったりと気持ちよい音楽を聴くことができる、力量のある演奏者の組み合わせがうれしい。 第2楽章のアダージョ、第3楽章のゆっくりとしたアレグレット、楽句に込めた作曲者の思いを届けるように、ていねいに進められる。楽天、開放、エピキュリアン、演奏者の生き方が現れているのか、ヴィオラの開放的な響きからか、のどやかな音楽に聞こえる。悲しみが聞こえないのではなく、あこがれの明るさの中で昇華されたのかもしれない。 2曲目はヒンデミット。「"現代音楽"のヒンデミットとの音楽とはかけ離れた、ロマンティックな音楽」「ロマン派の作曲家ドビュッシーやシュトラウスの影響」と演奏者自身のメモがプログラムにあったが、ドビュッシーの響きが現れたり、リヒャルト・シュトラウスの巨人のような無頓着さで、宝石箱からばらっばらっと撒いて歩くようだったり、饒舌な音楽だった。過剰だが深刻ではない。いつもなじむことができないシュトラウスの音楽を、楽しむきっかけになるかもしれない。 ヴィオラとピアノに名人の技を披露させ、じゅうぶんロマンティックなのにどこか乾いていて、危機の時代のはずなのに余裕を感じさせる。これがヒンデミットのおもしろさなのだろう。1919年の作曲、革命の時代のうすぼんやりとした希望? 後半1曲目はフルートとハープが登場、ドビュッシーのフルート、ヴィオラとハープのためのソナタ。 全音音階のかもし出す「詩」のような世界、そこいらじゅうに漂う夢のような霧、幕を切り裂くヴィオラのメランコリックな旋律。響きに身をまかせていると、アルカイックというのか、古代の追憶がおぼろげに立ちのぼってくる。水彩画、こどものいる風景。 第1楽章、パストラーレ。第2楽章、インタルーデ。そして第3楽章のフィナーレでは、狩り、野性、という言葉がよぎる。ストラヴィンスキーと同世代だ。 フルートがリードして、ヴィオラとハープが後ろから支えるのかと思えば、ヴィオラが思いがけなく合いの手を入れるという、奏者たちの積極性が音楽をわかりやすくしてくれていた。 プログラム最後は、ブラームスのソナタ。 クラリネットのためのソナタを、作曲家自身がヴィオラのために編曲したもの。ブラームス晩年、63歳で亡くなった作曲家61歳の年の作品。 時代の方向の反対をむいていたブラームス。和声進行での新技法の開発、調性感の喪失につながっていくワーグナー一派の新音楽の興隆という趨勢に、バッハやヘンデルに範を求めて、フーガ、パッサカリアなどの形式を用いたり、ベートーヴェンへの敬意に満ちた交響曲形式へ執心していた、遅れてきた古典派。 第1楽章のアレグロ・アマービレ。何度も眺めながら掌の上に作り上げたものを胸の上へ差し上げるように、ヴィオラから夢が放たれホールを満たしていく。懐かしさにあふれて歌うヴィオラ。愛しのヨハネス、あなたはひとりではない。 クラリネットの演奏では、言うあてのない諦念、という印象だった第2楽章のアレグロ・アパッショナートが、くすぶる燠火のような昂揚と遙か遠くを望むような夢想を感じさせるのは、ヴィオラの持つ男性的な決然とした性格からくるのだろう。 第3楽章アンダンテ・コン・モート。懐想・・・辞書にないことばを作りました。逡巡・・・。諦念・・・。狂おしいまでの昂揚、悲劇のような幕切れ。人生の最後にあたって心を埋め尽くす感情を見つめ、整然と構成していく。 やっぱり、ブラームスです。音楽を聴き始めてまもなく好きになったこの作曲家が、このごろますます好きになっていく自分を発見してしまった。 拍手に答えて、ヴィオラ、フルート、ハープが登場。 BEGIN の名曲「涙そうそう」、うさぎ追いしかの山・・・の「ふるさと」がアンコール。フルートが主旋律ヴィオラが対旋律を受け持ち、ハープのリズムに乗って自由に振る舞っていた。音楽の楽しみに満足したコンサートだった。 ヴィオラの金丸葉子はロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の団員、ヴィオラという楽器のせいもあってか、実力に見合った評価を受けていないのではないかと思った。各地のコンサートホールや音楽祭の運営者たちが、こういう奏者たちに創造的なプログラムを組ませる機会を与えず、凡々とオーケストラにいわゆる名曲を演奏させている現状には、気が重くなってしまう。 後半のハープとフルートの登場で、ヴィオラ奏者によるインタビューがあった。人の感情がわかるようになり、音楽の楽しみ方もわかるようになった14歳のころにフルートを始めたことが、とても良いことだった、というフルート奏者の話が印象に残った。ひとりひとりが自分の音楽を持つことが大事なのだ。 金丸葉子ヴィオラ・リサイタル 2005年7月20日水曜日 19時開演 |