小倉寺村ロゴ


楽譜   演奏会見聞録

07年2月10日

レイフ・オヴェ・アンスネス

シベリウス。「高踏」という言葉がありますが、通俗から遠く離れたところで、自由な精神が思いをめぐらせます。理想・愛惜・親密・叙情・静寂といったことごとが、どれも感情を昇華させたところで高ぶることなく、音になって響いてくるようです。この作曲家の交響曲で近づきにくいものを感じて気になっていましたが、今日の演奏を聴いたあとでは、それも楽しみのひとつになってしまうように思いました。
ピアニストはいくつもの感情を間違いなく聴衆の目の前にくりひろげながら、この貴族的な響きを暖かさに満ちた音で伝えてくれます。まばゆいほどの光で明らかにするのではなく、ひなたぼっこのようにやわらかい光で包み込んでくれるようです。荘重さのなかに懐かしさを感じてしまいました。

グリーグ。バラードを譚詩と覚えていました。いにしえの故事にちなんだ物語ということだったように思います。音を聴いて物語を想像することはできませんが、静かなささやきから感情の激しい嵐までの大きな振幅のなかで、劇が進んでいきます。恋愛でしょうか、いやもっと広い、人生? 嘆き、惑い、諦念、そして憧れ。感情の表出の激しさからマーラーの第1交響曲を思い浮かべましたが、グリーグのこの曲はずっと整理された構成のように聞こえました。
ショパンのポロネーズのような、ブレイク、飛翔、破調を経てすさまじいクライマックス、そして思い出すかのようなささやきの中に曲は終わりました。
(注:「ブレイク」は「バンドの全ての楽器をミュートして無音の時間を作ること。また、その箇所。」と辞書にあるようにジャズの言葉です。曲調が変わるときの無音がちょうどそんな感じでした。)
音楽史というのはカタログのようなもので、それぞれの曲が表出する感情を共感できるかどうかとは無縁なもののようです。だから、こんなすばらしい曲が音楽の教科書に載っていないのでしょう。
すっ、と息を吸うような間から鍵を抑えると、強い響きがひとつのにごりもなく響き、同じような呼吸からひそやかな和音が夢を語り始めます。速い部分も目に見えるようにゆっくりと感じられます。
ここでもアンスネスのピアノは陽だまりの赤い光の中にありました。じゅうぶん抑制され、理性!! そして力の余裕が感じられました。

響きが胸に熱く迫ってきます。孤独が発熱し、飛翔する・・・こんなピアノの音は初めてでした。いつものホールと違うからかとも思いました。このホールでは聴衆それぞれに放射の焦点があっているのかとも。どうもそうではなさそうです。こんなに音が整理されたピアノを聴いたことは、そうはありません。ピアニストの思いが胸に直接語りかけてきているのだと思うことにしました。

後半、最初はシェーンベルク。
12音音楽がこんなに懐かしく響くと、怖い肖像のシェーンベルクを友だちのように感じてしまう。音楽を理屈で考えてはいけない、この美しさを作曲家は求めていたのだ。
ほんの5分ほどの音楽に、幻想の螺旋が天空に上っていった。

余韻に浸る間もなく、答礼に戻ってきたかと思ったピアニストが、席に着いて演奏を始めた。ベートーヴェンの最後のピアノソナタ。
くっきりとした粒立ちの音がしっかりした土台の上に家を建てていく、その勢いの強さがじゅうぶんに伝わってくるのに、音はにごらず、リズムも乱れない。きびしいけれども、音の明るさからか、苦しくはない。
第2楽章。綿綿とつづられる旋律線がたゆたうとばかり考えていたこの曲が、いつもと違って聞こえる。線を強調せず、響きの移り行きが耳に訴えてくる。演奏の伝統が彼の中で再構成されて、新しい解釈がされたのだろうか。一本の線でなく、移り変わる安らかさが、絹のような手触りでたどられていく。静かな息遣いのなかで、透明な世界が広がっていく。
初めて聞くベートーヴェンだった。精神的とかいう決まり文句とは無縁のところで、舞台と客席が音響世界を共有していた。また、ベートーヴェンを聴いてみよう、そう思いました。

二、三度答礼しては惜しげもなくアンコールにこたえてくれる。聴衆の思いに寄り添うような人柄だ。
バッハ 編曲ブゾーニ: 主イエス・キリスト、われ汝を呼ぶ BWV639
メンデルスゾーン: 無言歌 より 嬰へ単調 Op.67-2「失われた幻影」
グリーグ: 抒情小曲集第1集 Op.12 より 第6番「ノルウェーの旋律」
グリーグ: 抒情小曲集第1集 Op.12 より 第5番「民謡」

「音楽ホール」という600席のホール、最前列、ピアニストの表情が目に焼きつくような席で聞きました。今度このホールに来るときはバルコニー席を押さえたい。
今回のコンサートは「ピアニスト100 100人を聴く10年」の第99回という。この劇場では、「シェイクスピアの全戯曲37作品を13年かけて上演する彩の国シェイクスピア・シリーズ」も続けられており、地元のホールでもこんな企画が立てられたらと、なんともうらやましいことでした。

ピアニスト100 99/100 レイフ・オヴェ・アンスネス
2007年2月10日土曜日16時開演
彩の国さいたま芸術劇場 音楽ホール

シベリウス: キュリッキ - 3つの抒情的小品 Op.41
     《13の小品》より〈悲歌的に〉Op.76-10
     《13の小品》より〈練習曲〉Op.76-2
     《5つの小品》(樹木の組曲)より〈白樺の木〉Op.75-4
     《10の小品》より〈舟歌〉Op.24-10
グリーグ: ノルウェー民謡による変奏曲形式のバラード ト短調 Op.24
シェーンベルク: 6つの小さなピアノ曲 Op.19
ベートーヴェン: ピアノ・ソナタ 第32番 ハ短調 Op.111